平成21年7月29日水曜日

舞踏日記 祈り、立つ、石、女

久しぶりに舞踏のお稽古に行ってきました。大野先生とのお稽古は日本でしか体験することができない楽しみのひとつです。

いつもの時間に横浜駅に着き、相鉄線の乗り場へ向かうと、すごい人で様子がおかしい。
人身事故、とのこと。嗚呼、日本だなあ、としみじみ。
まだ電車は動きそうにないので駅の中をぶらぶら。顔が描かれたとてつもなくかわいいおにぎりケースを見つけ欲しくなるも、特に必要ないと気づき思いとどまる。こんなキュートなものが売っているのも日本。
電車はなかなか走り出しません。多くの人が携帯で電車が遅れていることを連絡したり、他の行き方を調べたり。そして携帯のカメラで混雑の様子を撮影する人を数人見ました。日本、面白い国だなあ、とまたしみじみ。

上星川駅で他の遅刻者達と合流。40分遅れて到着。でもまだ踊りは始まっていなく、先生がお話をしていました。
舞踏は祈り、先生はいつもそう言います。今日もまずは祈りから踊りました。
頭を垂れるということ。いつも偉そうにあごをあげていては、この人はたいしたことない、となる。深々と頭を下げられる謙虚さを持つ人こそ、おっ、この人は、、となる。ゆっくりおじぎをするように踊りました。

立つ、ということ。これはほぼ毎回やります。
立つことの難しさ。ただ立っていればいいんでしょ、そんなの簡単、ということではない。
立つという行為の中に、自分の舞踏、自分の芸術の全てを表現する覚悟で、全身全霊で立つ。
ヨガでもTadasanaというただ直立するポーズがありますが、これも全身に気を配ると簡単ではありません。
また、内を見つめる、内面凝視の目を練習しました。

石になる。石の密度を踊る。例えば、風を踊るときと石を踊る時では、体の密度、硬直度が全く変わってきます。その違いを表現しました。
また、ただ石になるのではなく、石のように固くなってしまう理由を日常生活の中に見つける。
そう言われ、何が私を固くしているだろう、自由を奪っているだろうと、思いを巡らせました。

最後は、女。女に生まれたからと言って女を踊れる訳ではない。
確かに、歌舞伎の女形のほうが、普通の女性よりよっぽど女らしいと感じられることは多々あります。
ティッシュを一人一枚渡され、それを持って、愛する人が去っていくのを見守る女性を踊りました。前にでていくのではなく、悲しみの中、少しずつ後ろに歩いて行くという、想いをこめた動き。最後は床に寝かされた大きな長方形の鏡を川と捉え、水面に映る自分に目をやりながら、ゆっくり女らしくしゃがみました。

お稽古の後は、いつもいなり寿司が出ます。みんなでお茶を飲みながらいただきました。

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